偏差値ふぉーてぃー

教科書捨ててブログしてる偏差値40台の高校に通う高校生のブログ。

ニコニコ動画の構造と変容、走りだした文化は止まらない

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私がニコニコ動画を見始めたのは、2010年ごろなので小学5年生くらいです。おそらく、同じ世代でもかなり早くにニコニコ動画を見始めました。当時、『ブラック★ロックシューター』アニメ化やニコニコ大会議の開催などが行われニコニコ動画がリアルや社会と交わり始めた年でもありました。

それは、クリエイターと消費者を結びつける先進的なサービスがネットのみならずリアルでも台頭するというある種のムーブメントや現象に近しいものであり、人々の疑問に繋がることはありませんでした。

それから年月が流れ、2015年は多くのユーザーやクリエイターがニコニコ動画の現状に不満をぶつけるような現象が発生しています。例として、しっきー (id:skky17)さんによる「最後のゲーム実況者「ふぅ」とニコニコ動画の終わり」や匿名はてなで話題になった「私にとってニコニコ動画は空き地だった」という記事はここ最近に書かれたニコニコ動画関連の記事です。

今、ネガティブな側面が多く語られるニコニコ動画はネット上のクリエイターや消費者の存在の影響を多く受けています。これは、もしかするとネットサービスにおけるクリエイターや消費者とサービスの関係性についての今後の流れを示唆するものかもしれません。

ネットサービスやその一つの代表例であるニコニコ動画によって、クリエイターという概念が大きく書き換えられたことは間違いないでしょう。漫画家や小説家、画家は今日も変わらずクリエイターとして社会への影響力を与え続ける素晴らしい作品を創りつづけてていますが、同じくらいに勢力を強めてきたのが実況者や歌い手を呼ばれる人たちです。

このようなクリエイターが少なくとも若者にとってのクリエイションや娯楽のスタンダードになろうとしている或いは既になっているわけです。これはクリエイターという概念を現在起きている現象によって別レイヤーに移動しました。その別レイヤーは様々な要因によって発生したものと言えます。

かつては、自分がしたいことややりたいことだったり思いつきのネタを披露するような場所こそがニコニコ動画だったと言えます。明確な提供者やクリエイターという強い意識はなく、作品を投下してその作品を見てあーだこーだ言う人が居るというフリーダムで独特でありながらも構造として非常にシンプルなものでした、現状を整理してみると、作品を投下してからの構造が非常に複雑になり、社会への接点を持ったり影響力を高めることが出来るようになりました。これにより、単なる自己満足から自尊心を強めるツールを目指すことなく人の意識に変化が起きました。

しかし、この構造はサービスやその周辺にとって極めて重要なものになっています。クリエイターは注目を集めることに必死になったり名声を求めたりします。それに留まらず人気の高いクリエイターをイベントで利用したり企業が宣伝目的で実況者を使うことなどが企業利益となり相乗効果につながりました。

このような効果により、人々を別レイヤーに移動させられたわけです。クリエイターが何かを始めることでそれが文化となり人々が求め始めるというところまでは良い流れだったと言えます。その良い流れは、全く違う外的要因により「どのようなクリエイターやユーザーが欲しいか」というところに重点が置かれ変化し始めました。

つまるところ、ニコニコ動画という独自の場所は少しづつ普通の場所へと変化する第一歩となったわけです。

現在、ニコニコ動画における中高生のマナーの悪さが度々指摘されますがそんな彼らにとってアイドル的存在とも言える「HoneyWorks」というボーカロイド楽曲の制作を手掛けるクリエイターユニットが話題になっています。このユニットの楽曲における最大のポイントは、テーマが学校や恋愛などといった中高生おいて非常に共感を呼びやすいものだということです。これは、単純に作品を投稿して観たい人が見るという構造ではなく多くにヒットする話題やフォーマットで提供されているところに、現在の構造を意識していることが伺えます。

honeyworks.jp

上記に挙げたものはほんの一例に過ぎず、このような動画は増えています。しかしながら、これこそがサービスや価値観、構造の変化と同時にもたらされたクリエイターと消費者の変容によるものです。

クリエイター奨励プログラムで多くのクリエイターを成長させようと努力しましたが、マリオメーカー問題に発展し既視感を感じる実況者を大量生産する結果になってしまいました。しかし、現在はネット上の居場所がリアルと連動し社会的な影響をもたらす過渡期だということと同時に、これをネガティブな発想で捉えることは独自の文化が大衆的になっていくある種の成長を止める要因にもなります。

dic.nicovideo.jp

サービスが終わらなくとも、ネガティブな発想により文化の成長がなくなることは十分に考えられます。数多の問題点が存在するこの文化を発展し昇華させていくことが出来れば、この文化に対する意識や概念を変えられます。

この時にようやく、ある一つの文化としての概念や構造が確立されるのではないでしょうか。