偏差値ふぉーてぃー

教科書捨ててブログしてる偏差値40台の高校に通う高校生のブログ。

蛭子能収の『ひとりぼっちを笑うな』から学ぶ、一人でも楽しい生き方

バラエティー番組などで、度々面白いエピソードを取り上げられる蛭子能収ですが、そのエピソードを取り上げつつ生き方について書いた著書「ひとりぼっちを笑うな」を読んでみました。

本著では、度々自身のエピソードを振り返りながら、自分の行動や考え方を整理し、世の中の生きづらさや悩みに対して、蛭子独自の視点で語っています。

友達という関係性にメリットはない

世間一般にある友達がいることのメリットとして「悩みを相談できること」をあげていますが、それを下記のように説明しています。

そうやってお互いの弱みを握り合っていることによって、その関係性を取りつないでいるとも見えてくる。そんな 関係、僕はやっぱり不要に感じ てしまうんです。

このメカニズムを理解し、自分が今持っている様々な関係性を見直してみると、そういうつながりを持っている人は結構いるのではないでしょうか。

学校のクラスでなんとなく作り出される仲良しグループなど、自分が意識しないうちにそうなってしまう。一見すると、あまりにも受け入れがたい意見にも思えます。

しかし、そう言った現代社会の構造に対する、警鐘だと思うのです。

よくよく考えてみると、自分にとってその関係性を取りつないいることでメリットに感じることなんて更々ないんですよね。それどころか、ここ最近のLINEのやり取りを起因とした、人間関係のもつれによる殺人事件なども起きています。

何かを盾に自己表現をしてしまう人

蛭子は、ブランドや車にこだわらないなど、極めて合理的な人間性であることがうかがえます。(本著でも度々出てくるギャンブルを除いて...)

世間はブランドものを持っていることで自己を表現したり、また、それを見た人は個性を判断しようとしています。しかし、これも先ほどの話と同じで実はこんなことには何も意味がないというのを気付かせてくれます。

というように、僕は怖いくらいに物で自己表現することはしません。物で 自分を表現してもしょうがないし、〝 表現〟するというのは、本質的な 部分でそういうことじゃないと思っているんです。

そこで、本質的なものが何かということを考えてみると、断片的に書かれていることが分かります。ここでは、勝ち負けなんかで落ち込まず気楽で居たほうが良いということを語っています。

これは、本著で度々見られる蛭子流の割り切り方です。

もし、誰かに「お前は負け組だ」と言われたとしても、いつかは勝ち組に なれるかもしれない。だから、たとえそんなことを言われたとしても、「 ああ、いま俺は負けているのか」くらいの軽い気持ちで考えていればいい んじゃないかな。

この考えは本著の根幹になと思っていて、どこか劣等感を感じるからそこらへんに里う誰かと同じグループに所属したり、何かを見繕うんじゃなくて、あえて自分を低く見積もっておいて、何が起きても気にしないことが重要なのだと感じます。

大切なのは自分の意思をブラさないということなのだとおもいます。蛭子能収が、ぶれることなく自分自身を貫いてきたように、どんな世の中であろうと自分が自分であることが大切なのです。

生きづらくない世の中

本当のことを言うと、世の中なんて昔といまでそんなに変わりはないんですよ。自分ではあずかり知らぬ大きな力が働いて、いつの間にか生きづらい世の中になってしまった――なんてことはありません。

察するに「いつの間にか生きづらい世の中になってしまった」というのは、SNSサービスや技術の発展によって、僕らは自分の生きづらさをどこかに押し付けているだけなのかもしれません。

そう考えると、世の中なんて昔といまでそんなに変わりはないという意見に納得できます。今がどうである、とかは考えずに力を抜くことが重要なのです。

友達がどうこう、他人へ対しての見栄がどうこうなんて考えているから、疲れてしまうし、生きづらいと考えてしまう。実は、そんなことよりもこう思ってくれる人がいるだけで十分なんだと綴っています。

ひとりぼっちでいることをけっして笑うことなく、そんな自分を微笑みながらいつでも受け止めてくれる人を見つけること。