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偏差値ふぉーてぃー

教科書捨ててブログしてる偏差値40台の高校に通う高校生のブログ。

頭のいい人が頭を使い続けることは果たして本当にいいことなのか

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以前、以下の記事を執筆した際にはてブでこんなコメントがつきました。

quoqlish.hatenablog.jp

あの人キライ発言には「キライだからどこかにいってくれないかな」「いい人に変わってくれないかな」という幼稚な願望が隠れてるんだよね。自分がそれに対してどう適応すべきかを考える方が建設的だし大人だと思う

このコメントの個人的解釈としては幼稚な願望をそういった発言で表現する子供のような人に対して、その人の考えを教えていくことよりも大人な私達が適応力を求められて対処していくことがよっぽど大人だという話をしているように考えました。

しかし、すべての出来事に対してそういった考えで大人が子供を無言で見守るような態度を取ってそのままの生き方をさせるべきでしょうか。甚だ疑問に感じます。

頭のいい人が適応力で対応をし続けるというのは、ある意味相手の成長を止めることに等しいわけです。仙人のように達観して頭のいい人が成長を止めずに、子供ような人を指摘することもなくそのままにするということは、自分にとってもストレスやコストを増やすリスクにもなりかねません。

例えば、会社や部活で子供のようにごねたり、特定の相手を中傷し続けるような人がいたら放置しますか?普通、自分のリスク回避や相手のことを思いやっていくという考えのもとに指導や文句をつけたりするのが当然でしょう。そういった幼稚な願望を放置する人の方がよっぽど子供のように見えるだけです。

確かに、冷静に考えると大人な私達が適応力を高めることが最も効率的で自己解決手段としては非常に話が早いです。しかし、そういったコストパフォーマンスを天秤にかけてまで私達が頑張ることが美徳のようには全く思えません。

相手を見極めアドバイスや愛のある批判を繰り返すということは、先述したこともわかっている大人な私達にとっては並大抵のことではないということについて多くの人がわかっています。しかしながら、現実として長いスパンで見た時に幼稚な人を幼稚なままにしておくことの方がずっとコストになってくるわけです。

時間軸を引いてみることにしましょう。現在のコストが膨れていたとしても遠くない未来に改善されることによってそのコストは非常に減っていくわけです。 は?そんなその人に時間かけられないのではないのだろうか、という疑問が湧いた人もいるかもしれないがそもそも適応する話を考える時点で長く付き合うという前提がそこには存在しています。

また、そういった前提があるとすればそのアドバイスや批判は価値観をすり合わせたり人間性をよく見るキッカケにもなってくることは十分考えられるでしょう。頭のいい人が頭を使ってばっかになるのではなく、少しでも可能性を求め頭を使ってもらえるように建設的な対応を取ることがベストなのではないでしょうか。

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