偏差値ふぉーてぃー

教科書捨ててブログしてる偏差値40台の高校に通う高校生のブログ。

あふれる"不幸自慢"と"共感"は誰も成長させることが出来ない

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聞いていて嫌になってしまう不幸自慢に耐え続けるのはもうごめんです。

なんというか困ったことに、不幸だった自分をさらけ出すのが好きな人が多いのかわかりませんが「私は昔いじめられていた」みたいな報告を受けます。正直言ってしまうと「だから何?」と思うわけですが、何も反応しないと泣いちゃうかまってちゃんが多いので必死にかまってあげます。

そうやって不幸自慢をして共感したフリをするループって何の意味があるのでしょうか。はっきり言って、ただ過去を引きずりながらガラスのハートを曝け出して承認欲求を満たそうとすることなんて自分の成長を止める足かせにしかなっていないのですよ。

自分が経験してきた過去に苦い話があるのは良くあることです。私にだって、それはたくさんあるわけですがそれを披露しようとは思いません。それを披露することが恥ずかしいというわけではなく、自分の成長をピタリと止めてしまう大きな原因になるからです。

不幸自慢の心理には「認めてほしい」「同情してほしい」という心理が強くあります。普段から不幸自慢が多い人はいつもこう感じているわけですが、そうでなくても不幸自慢を話したくなってしまうのはこういう気持ちだからです。しかし、現時点の自分を認めさせて同情で酔うということは思考を止めて満足させてしまうことになってしまいます。

そして、更には相手を諦めさせてしまうことにもなります。不幸自慢が多ければ、相手からは間違いなく面倒な人だと思われてしまいます。だとするなら、不幸自慢を聞く相手の行動パターンも適当にあしらうようなものへと変わってしまいます。

要は、相手も「へーそうなんだね」「つらいね」という同情になってしまうわけですから自分の良くないところや価値観をすり合わせていくような話は全くと言っていいほど出来なくなってしまいます。

そして、これらの連鎖を加速するようにしてきたのがただの会話ではなくSNSによるコミュニケーションです。

Facebookの「いいね!」は共感のいい例になります。自分の投稿に「いいね!」がつくとホッとするような、嬉しいような感情を抱く人が多くいますが確かにそれはそれで分かります。しかし、共感というベクトル上のフィードバックは成長につながってきません。

何をするにも単純な共感でやり過ごされてきている現代において、批判的な意見を飛ばしたり厳しい内容が含まれるような価値のあるコミュニケーションに打たれ弱くなり嫌悪感を抱くような人が多いような気がします。それは、単純な共感というものがそれ以上の価値を持たない質の低いコミュニケーションだからです。

こういった問題がありながら、どのようにして成長に昇華させていけばいいのかということですが至ってシンプルです。"そのような不幸に同情できるけども、それを受けて自分がどう成長していけるのだろうか"というニュアンスの質問を投げかけるということです。

そうやって、酔うのではなく思考させることです。相手の暴走を許さずに、自分が思考のキッカケを作ってあげることです。でなければ相手をダメにしていくだけです。価値のあるコミュニケーションを自分から与えていくということが、大人の対応でもあり相手を大人にしていきます。